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スロヴァキア共和国コシツェ:歴史と工業の街
2008年9月、スロヴァキア共和国初の欧州文化首都となるべく選出されたコシツェ(Košice)は、ドナウ川支流のホルナート川に臨む国内第2の都市です(面積約245平方キロメートル、人口約24万人)。スロヴァキア東部に位置するコシツェは、国内西端にある首都ブラチスラヴァ(Bratislava)から約450キロ離れていますが、ハンガリー国境から約20キロ(ブダペスト国際空港から車で約3時間)、ウクライナ国境から約80キロ、ポーランド国境からは約90キロの距離に位置し、スロヴァキア東部の玄関口としての役割を果たしています。
コシツェ市民の9割はスロヴァキア人ですが、ハンガリー系やチェコ系、ロマなど、さまざまな民族的背景持つ人々から成っています。また、言語や食文化、生活習慣などにも、ハンガリーやドイツ、スラブ系の影響が混在しているとされ、こうした文化的多様性は、10世紀以来長年にわたりハンガリー王国の支配下にあり、中世以来交易路の要所として発展してきたという、歴史的経緯によるものです。
スロヴァキアでも最も古い都市のひとつであるコシツェは13世紀初頭の文献に登場しており、1290年には、ハンガリー王国により、城砦の建設や税の徴収、市場の開設などを許可されました。14世紀半ばから18世紀初頭にかけては、東西の交通の要所という立地を生かし、ブダペストに次ぐ第2の都市として商工業を発展させました。現在のコシツェ市内旧市街にも、当時の繁栄をうかがわせる建造物が数多く残されています。
他方コシツェには、20世紀に入って2度の世界大戦を経た後、1948年以降は旧ソビエト連邦の衛星国・チェコスロヴァキア共和国(※1)の都市として歩んできたという側面もあります。コメコン(COMECON)(※2)を通じた社会主義的国際分業体制のもと、コシツェは工業都市として発展し続けましたが、次第に生産性や品質、デザインなどについて西側諸国に遅れをとるようになったとされています。
共産主義時代の面影:(左)1952年に設立されたコシツェ技術大学。開設当初は、重工業、鉱業、金属工業の3学部からなっていました (右)1957年に建設されたアリーナ。老朽化が進み使わなくなっていましたが、欧州文化首都開催を見据えて、近年修復されました ©Tomáš Čižmárik
1989年、東西冷戦の終結とともにチェコスロヴァキアも民主化し、その後チェコとスロヴァキアは分離(1993年)。2004年には、スロヴァキアがEU加盟を果たし(※3)、コシツェも欧州の一員となるに至っています。
新しい街づくり:欧州文化首都2013開催の背景
コシツェの経済は、現在も鉄鋼・機械・化学工業などにより支えられ、市内には東欧有数の大規模な鉄鋼コンビナートもあります。しかし最近は、鉄鋼業の低迷もあって、コシツェも経済の停滞と高い失業率に悩まされています。また、EUへの加盟後は、より所得の高いその他加盟国への労働力の移動が顕著となり、特に、比較的教育水準の高い労働者や若年層が多く流出したことが、コシツェの社会や経済にさまざまな影響を与えているとされています。
そうした状況下、近年のコシツェでは、新しい街づくりのための多彩な取り組みが行われるようになっています。コシツェの都市再生のキーコンセプトは、“インターフェース”(Interface:共有領域、境界面、接続部分、接触、交流などを意味する)。2013年の欧州文化首都開催も、コシツェが都市として生まれ変わるための中長期的なプロセスの内に位置付けられています。
インターフェース:東西をつなげる
コシツェの街づくりでは、交通の要所として栄えてきた歴史を受け継ぎ、かつ、今後はEUの一員として東西をつなげる役割を果たしていくことが目指されています。
例えば、欧州文化首都2013と連動するアートプロジェクト「K.A.I.R.」(2011年~)では、海外アーティストのコシツェ招聘と、コシツェ在住アーティストの海外派遣により、中・長期滞在型の国際文化交流を行っています。これまでにウクライナ、モルドバ、フランス、ドイツなどとの間で相互派遣を実現させ、アーティストの交流のみならず、コシツェ市民に気軽にアートに触れる機会を提供してきました。プロジェクトの一環として、東西を結ぶ役割を共有するヴィシェグラード・グループ(※4)と連携し、関係強化が模索されていることも特徴的です。
プロジェクト「K.A.I.R.」:(左)2012年8月、ドイツ人アーティストの演出により、旧市街で街頭アートイベントが開催されました ©Michal Rohal (右)2012年11月、2013年に欧州文化首都を開催するマルセイユからフランス人アーティストが訪れ、19世紀のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を舞台に展示を行いました ©Claire Dantzer
「K.A.I.R.」日本に到達
2013年2月現在、「K.A.I.R.」は、東京都杉並区のNPO「遊工房アートスペース」との間で交換プログラムを実施中です。1月から3月にかけて、画家のエリック・シレ(Erik Sille)さんが日本に滞在し、作品の製作や展示、講演、日本人アーティストとの交流や伝統文化の鑑賞を行います。その後、3月から5月にかけては、日本人アーティスト洗川寿華(あらいかわ・じゅか)さんがコシツェに派遣される予定になっています。
インターフェース:新旧をつなげる
コシツェの街づくりにおいては、中世以来の重工業の伝統を保ちつつ、創造性と躍動感に満ちた新しい社会・経済を構築していくことも課題とされています。
プロジェクト「SPOT」:(左)共産主義時代に建てられた集合住宅の老朽化した暖房設備が、コミュニティーセンターへと変身しました ©Tomáš Čižmárik (右)住民が自らプロジェクトに参加し、相互交流の促進とコミュニティの活性化がはかられます ©Košice 2013
近年、コシツェ市は、情報やサービスなど、新規産業セクターへの投資誘致を積極的に行うことで、新たな経済開発の可能性を模索しています。他方、欧州文化首都2013とも連動するコミュニティプロジェクト「SPOT」では、地方自治体(市)や民間企業・団体、市民による自発的な参加を得て、使われなくなった公共施設や公共空間をオリジナリティ豊かに再生することで、住民の自発的な交流の場を創出し、市民社会の活性化につなげようとしています。
歴史と伝統の上に立ちながら、新しい都市としての魅力を引き出そうとするコシツェの取り組みが、「欧州文化首都コシツェ2013」招致の素地となって、開催に至るまでの道のりを方向付けてきたと言えるでしょう。
開幕式出席のためにコシツェを訪れた欧州委員会のアンドゥルラ・バシリウ文化担当委員(中央)とコシツェ市長(右) ©Košice 2013
欧州文化首都:日本とのつながり
1985年以来、欧州文化首都を定め、多様な文化交流行事を毎年実施していることの背景には、政治・経済のつながりに加えて、文化的な結びつきを強めることにより、欧州における地域統合を促進させていく狙いがあります。しかし、文化首都の開催に伴う交流は、EU加盟国間のみならず、日本と欧州との結びつきを強化させる役割も果たしています。
1993年、ベルギー・アントワープでの欧州文化首都開催の一環で、日欧交流事業「第1回EU・ジャパンフェスト」が実施されました。以来、欧州文化首都開催に際し、日本と欧州の共同文化事業が毎年実施されるようになっています。欧州文化首都における日欧交流に大きな役割を果たしているのが、「EU・ジャパンフェスト日本委員会」です。同委員会は、アントワープにおける欧州文化首都開催を翌年に控えた1992年に、日本の経済界や欧州各国の駐日大使によって設立され、以降、市民やアーティストの国境を越えた芸術文化活動の支援を目的に、日欧間の芸術文化交流の支援に継続的に取り組んできています。
欧州文化首都コシツェ2013についても、開催年を迎える以前から、コシツェとの国際文化交流を実現させるための調整が同委員会を中心に行われてきました。この機会を皮切りに、今後、コシツェとの交流が中長期的に展開していくことが期待されています。1月20日の欧州文化首都開幕セレモニーに際しては、コシツェ市民の前で日本人アーティスト壱太郎氏の和太鼓の演奏が披露され、オープニングに華を添えました。
(左)2013年1月20日開幕セレモニー (中)壱太郎氏による和太鼓の演奏 (右)ライトアップされた聖エリザベス大聖堂 ©Košice 2013
zdroj: http://eumag.jp/spotlight/e0213/
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